Episode01.
はじまりは、一杯のミルクティー
小さな頃から、雨に濡れた新緑やアスファルトから立ち上る
香りなど、
「におい」に敏感に反応する子どもでした。
理由は分からなくても、香りはいつも、私の心を遠くへ連れ
ていってくれたのです。
大学卒業後、大手電機メーカーのシステム営業として
多忙な日々を送っていたある日、
取引先の食品商社で、ティー・レディの方が淹れて
くださった
一杯の本格的なミルクティーに出会います。
湯気とともに立ちのぼる、濃厚で、甘く優しい香りと味わいに、
私の心は強く揺さぶられました。
「香りって、こんなにも人を幸せにするんだ」
そう、はっきりと感じた瞬間でした。
出産を経て、「自分のやりたいことをしよう」と決意したとき、
浮かんだのは「香り」というキーワードでした。
そしてアロマテラピーの資格を取得し、
香りの調合に携わる中で、思い出したのが、
あのミルクティーの香りです。
「なぜ私は、あれほどまで魅了されたのだろう?」。
その理由が知りたくて、私は日本紅茶協会の門を叩き、
香りの深淵へと足を踏み入れたのです。
Episode02.
庭園と紅茶、英国文化への目覚め
ハーブの仕事と紅茶の学びを続けるうち、私の好奇心は広がっていきました。
たとえば私が愛するアールグレイは、
ベルガモットという柑橘類で香りを付けた紅茶です。
「そのベルガモットってどんな木で、実は
どんな香りなのだろう?」
気になり始めるとじっとしていられない私は、
苗を買って育て始めました。
ラベンダーも、長年の品種改良で膨大な種類があることを知り、
「おおもとのラベンダーって、どんな香りだろう?」と
原種とされるラベンダーを育てて確認せずにはいられませんでした。
次々とハーブを増やすうちに、現在の本社がある元農地だった敷地は、
いつしか野草園のような佇まいになっていました。
「ハーブガーデンとして、きちんと整えたい」と考えたとき、
庭園も紅茶も、ともに英国文化の中で育まれてきたものだと、
あらためて気づいたのです。
香りにも紅茶にも、その奥には文化がある。
そうした「すべて」を伝える仕事がしたいと
思い始めたのでした。
Episode03.
ティーインストラクターとなり、世界へ
日本紅茶協会認定のティーインストラクター資格を取得後、
協会から講師として残らないかと声をかけていただきました。
会社員を辞めてから「妻」「母」という肩書きだった
自分に「先生」が加わる。
新しい世界の始まりにワクワクしました。
そして、
教えるからには、本物を知らなければ。
私は初めてイギリスへ旅しました。
そこで出会ったのは、「大きな文化の中にある紅茶」でした。
カントリーサイドのティールームやマナーハウスでいただく紅茶は、
お作法やしきたり以前に、生活のリズムに溶け込んだものであることを知りました。
小さな町にも薬草園があり、ハーブティーも身近な存在です。
好奇心の赴くままに追いかけてきた、香りとハーブと紅茶。
それらが見事につながっていったのです。
コロナ禍までの十数年間、
英国だけでなくインドやスリランカ、中国、マレーシア、トルコなど
茶葉の産地も訪問し、
さまざまな品種の茶葉と、
その加工方法も目の当たりにしました。
「この文化を、丸ごと自分で伝えたい」。
これが次の一歩につながっていきました。
Episode04.
何気なくつくったコーディアルが評判に
イギリスで見た薬草園をお手本に、庭を整備しました。
生徒さんや友人を招いて紅茶を振る舞う際には、一緒に庭を
歩きハーブ本来の香り
を体験してもらいます。
そこで多くの方が足を止めたのが、
草だらけの中に咲くオールドローズという原種のバラでした。
見た目の美しさはもちろん、やわらかく奥行きのある香りが、そっと心をとらえます。
けれどこの花を楽しめるのは、初夏のわずかな期間だけ。
「この香りを、もっと多くの人に届けたい」
──そう考えた私は、
イギリスで親しまれている「コーディアル」づくりを思いつきました。
コーディアルとは、ハーブや果実を漬け込んだシロップ。
炭酸や水で割って頂くドリンクです。
かつてイギリスの田舎町を訪ねたとき、地元のお母さんや
おばあさんが手作りした
コーディアルのおいしかったこと!
そして
オールドローズの花びらとつぼみを惜しみなく使った
コーディアルを振る舞うと、
思いがけないほどの反響があり、
「ぜひ分けてほしい」「きちんと対価をお支払いしたい」と
声をかけていただくようになりました。
商売とも言えない小さな取り組みが、やがて会社設立へとつながっていきます。
Episode05.
生け垣から生まれた、はじめての紅茶
庭を散策していたある日、
私は会社を囲む生け垣がお茶の木であることに気づきました。
本社のある埼玉県新座市は狭山茶の産地に近く、
かつてはお茶づくりが盛んでした。
その茶畑の名残が、今も生け垣として残っていたのです。
お茶の木があるなら、紅茶が作れます。
紅茶の製法は、普段から生徒さんたちに教えていましたし、
製造の現場も、数えきれないほど目にしてきました。
だからこそ、ふと感じたのです。
——そろそろ、自分の手でつくってみる時なのではないかと。
私は有志の仲間とともに、紅茶づくりへと踏み出しました。
お茶の木には多くの種類があり、できるお茶や紅茶の風味も
異なります。
庭に生えていたのは、推定樹齢100年を超える、この地に根付いた「在来種」。
この茶葉で仕立てた紅茶は、不思議なことにダージリンを思わせる味わいとなり、
こちらもまた「売ってほしい」と評判を呼びました。
資格を持つ者として、
中途半端なものは絶対に販売できません。
コーディアルも含め、安心・安全で、本当においしいと思えるものを、
責任をもってお届けできる体制を整える必要があったのです。
そして2019年、株式会社スティルルームスが誕生しました。
Episode06.
世界に通用する日本の紅茶を目指して
Still Room(“スティルルーム”)とは、
かつてヨーロッパの貴族の屋敷や修道院に設けられていた「調合の部屋」。
ハーブや果実を用い、薬用となる飲み物や保存食、
コーディアルなどを仕立てる場所でした。
時代とともにその役割は広がり、やがて紅茶や砂糖、香辛料といった大切な嗜好品を保管・管理する部屋へと受け継がれていきます。
さまざまな香りや素材、物語が静かに集い、育まれる場所。
そんな部屋を、いくつも持つ存在でありたいという想いから、
社名を
「STILL ROOMS(“スティルルームス”)」と
名付けました。
製品をつくるからには、
これまで私が学んできた「本物の紅茶」に決して引けを取らないものを届けたい。
その想いから、この土地にふさわしい品種を見つけるために
お茶の木の種類を増やし、紅茶に適した育て方を試し、乾燥や発酵といった工程も、
その年、その茶葉に耳を澄ませながら調整する。
ひとつとして同じ答えはなく、
今もなお、最良を探し続けています。
ありがたいことに、
英国の権威ある食品品評会「グレート・テイスト・アワード」を受賞することができました。
現在では、設立直後から出品している紅茶とコーディアルの他に多くの商品が継続して星を受賞しています。
スティルルームスだからできる、
世界に胸を張れる製品づくり。
それが私たちの変わらぬ目標でもあります。
Episode07.
長野でのブドウづくり。新たな苦労が始まる
紅茶づくりの研究を深めていくうちに、
私の中に、また新たな好奇心が芽生えてきました。
「香りと言えば、ワインだよね」。
どんなブドウから、どんな香りと味わいのワインが
生まれるのか。
そこに強い興味を持った私は、
ブドウの木を育てるところから、歩みを始めました。
本社の庭と、長野に住む祖父母が所有する農地に、
シャルドネ、ピノ・グリ、プティ・マンサン、ソーヴィニヨン・ブラン、ヴィオニエ、
さらには赤ワイン用品種のカベルネ・ソーヴィニヨンなど、さまざまなブドウを植え、
地域の農家さんに手伝っていただきながらも、
施肥や剪定など可能な限りの作業を自分の手で行うようにしました。
長野は果物王国で、ブドウの栽培も盛んな土地です。
「それなら、地元の固有種、
長野ならではのブドウがあるのでは」。
原種(原種には、恣意的に作られていない儚い香りがある)
に惹かれる私は、
一時は絶滅の危機に瀕した「善光寺竜眼」という品種があることを知り、
これも植えることを決めたのです。
それが、新たな苦労と楽しみの始まりとなったのです。
Episode08.
「大丈夫?」と心配され続けたワインづくり
ワインづくりは、想像以上に大変でした。
毎週のように新座と長野を往復し、土にまみれる日々。
しかも善光寺竜眼は、少し目を放すと盛大に枝を繁らせてしまう暴れん坊で、
本当に手がかかり、こちらの体力も容赦なく奪っていきます。
作業を終えるころには、毎回くたくたでした。
そんな様子を見て、
周囲の農家さんに「あんた、本当に大丈夫?」と
心配されてばかりでした。
ワイナリーの運営も甘くありません。
「まずは勉強が必要だ」と、息子の巽がワイナリーに就職して一年間修行。
私も醸造家志望者向けのアカデミーに入学して
基礎から学びましたが、
知れば知るほど簡単でないことを思い知らされました。
納得できるワインをつくるには年月をかけた試行錯誤と経験が必要で、
それには自社でワイナリーを持たないと難しい。
それには人も資金も必要で、今の私たちの身の丈を越えてしまいます。
しかも成功はまったく約束されていません。
それでも、
難しいことほど挑戦したくなるのが私です。
今も新座と長野を往復しながら、汗と土にまみれています。
Episode09.
小さな会社だからできる社会貢献がある
長野の農家さんと交流が始まると、
地域の農業が多くの課題を抱えていることがわかりました。
長野市川中島町地区で育てられている川中島白桃や川中島白鳳といった希少種が、
作り手の高齢化や気候の温暖化など多くの課題に直面していること。
リンゴ農家さんが台風などによる被害で苦境に立たされていること。
「なんとかできないか」と考えた私は、
市場で良い値が付きにくい形の果実などを購入し、
ジュースやシードルに加工することを思いつきました。
そうして生まれた商品は、
地元・しなの鉄道さんの特別列車で振る舞われたり、
紅茶とコーディアルからお付き合いが生まれた
日本橋三越さんの「英国展」でお披露目されたりと、
少しずつ、手に取ってくださる方が増えています。
小さな会社の挑戦ではありますが、
農家の方々や地域社会とタイアップして、
農業と地域の活性化に少しでも役立ちたいと考えています。
Episode10.
香りがつないでいく、これから
ブドウの栽培を始めてから、足かけ四年。
2025年、はじめてのワインが完成しました。
長野のワイナリーさんで委託醸造しましたが、醸造用ステンレスタンクは自社専用。
私や巽が毎週のように通って状態を確認し、「スティルルームスのワイン」と言える
ものに仕上がりました。
味については、これからも工夫と試行錯誤が続くと思います。
ブドウの出来は年ごとに異なり、どの種類をどうブレンドするか。
香りも味わいも、同じ年は二度と訪れません。
だからこそ、手を止めず、考え、試し続けています。
2026年からは木樽仕込みも始め、いつかは赤ワインにも挑みたいと思います。
自社のワイナリーを持つことも、あきらめてはいません。
スティルルームス設立と前後して建設した英国マナーハウス風の本社社屋は、
今は不定期にお茶会や紅茶セミナーを開催していますが、
ワインも含めた
「香りと文化を伝える癒しの拠点」に
していきたい、という夢もあります。
大きく広げたいわけでも、
たくさん売りたいわけでもありません。
手しごとで仕立てた紅茶やコーディアル、
苗木栽培から手がけたワイン、
心から「良い」と思えるものだけを、
必要としてくださる方のもとへ。
今日もまた、畑に立ち、
お届けしたい「香り」と向き合いながら、
私たちは、素材と手しごとにこだわったものづくりを続けていきたいと思います。